大村競艇場(長崎県)
1952(昭27)年〜

1942(昭17)年
大村市は一町五ヵ村が合併して市制が施行され
戦争の拡大に伴い軍関係施設等が次々に建設され人口も急激に増加大発展を遂げた

終戦と同時に廃墟と化し市の財政も次第にひっ迫するに至った

市長は
諸問題も併せて財政建て直しの為に思い切った一大施策を考えざるを得なかった
そんな矢先
モーターボート競走法が制定施行されることをいち早くキャッチし
市議会に於て直ちに各部会より二名宛の委員を選出し研究、協議を重ねた結果
モーターポート競走誘致特別委員会を設けることとなった

モーターボート競走法法案の通過を待たずして
競走場設置事務所が新設され法案の通過と共に官報を取り寄せ丹念に検討にかかった
市の全予算規模、僅か二億一千万円の中から
実施して見なければ全くわからないこの大事業に対し千数百万円もの巨費を借り入れ投入し
競艇事業をはじめようとする市長の心境は考えてもあまりあるものがあった

1951(昭26)年6月18日:モーターボート競走法制定公布

競艇法成立を待って早くも
長崎県モーターボート競走会が設立された
そのねらいは全国に先がけて一日も早く本県で競艇を実施させることにあった
競艇場の選定は一刻を争う緊急の問題であり
候補に上った長崎の竹之久保、南高の小浜、佐世保の大塔、時津、大村の五ヵ市町村の
いずれに競走場の設置を決定するか、あらゆる角度から検討された

県内で選手の募集を行なったのは7月中旬
一日十二レースとして一人で二回走るとすれば最少限五十名は必要となるので
希望者を綿密にテストした結果三十二名の内六名は選にもれて
二十六名が一応訓練の対象となった
一方三重県の津市に於ても大村と並行して二十四〜二十五名の訓練を始められていたので
全員が無事合格となれば両者でかろうじて間に会う人員の目処もついた

当時、大村市では早くも競艇場建設事務所を開設し準備を進めていたので
あらゆる手段を講じて玖島崎(現:
大村競艇場)のよさを力説し誘致に努めた
湾内に長く突き出て奇岩起伏し老木は鬱蒼と繁り
城の石垣はこけむして大村藩一千年の栄枯の跡をしのばせ
参道の桜と、お堀の菖蒲は観光名所の一つとして広く親しまれ
海はあくまでも澄み、真珠を抱いたアコヤ貝が波間にきらめく光景はオトギの国を思わせ
まさしく日本屈指のユートピアであることは訪れる人のすべてが異口同音に絶賛する処である
あの手、この手を使ってしつように交渉を続けた結果


同年8月10日:社団法人長崎県モーターボート競走会設立認可(全国第一号認可)

ようやく大村市に競走場決定の回答を得るにいたった

同年10月3日:大村選手養成所にて選手養成開始

早速、競艇場隣の水明荘に合宿し訓練を開始した
えりすぐった二十六名の訓練生は江田島の兵学校をしのぶ厳しい訓練によく堪え
見事な成果を収めることが出来た
一万エンジン及び艇の構造、取扱いについても熱心に技術の収得に努めた

やがて東京から艇、エンジンが到着するや
これ等になじむため、さらに厳しい訓練が続けられたのであった

1952(昭27)年4月6日:
大村競走場にて競走法に基づく最初のレースが開催された(施行者:大村市


官報にて必要な施設、備品等を検討するが
国内で初めての施行とあって参考となる施設一つなく雲をつかむ様なもの

直経ニmの出走信号用時計が必要であることが判り、当時国内で最も名が売れた服部時計店に照会した処
その見積価格が百万円以上で(こんな大きなものは過去に製作した実績が無いとの註釈入り)
結局、鉄工所を経営し研究心な市内の松永氏の案で砂時計の原理を応用した大型”砂”時計が誕生し使用された

コースも丸型、四角型、三角型、直線等が考えられ、実際に走行させ
最終的には二点マーク直線コースが取上げられることになった
それと並行してターンマークの作製にもあらゆる工夫がこらされ何回となく作り替えられた
最初は四斗人りの醤油樽に約二分の一余りの砂を詰めて浮かべ、真中に旗を立てて使用したが
一ヵ月も経たぬ内に水が入り沈んでしまい、マークの役を果たさなかった

出走合図にいたってはドラの音(ペーロン用ドラ)使用であった


今日の競艇があるのも
当時、苦難に耐えながら数々の歴史を残した関連者の努力の結晶ともいうべきではなかろうか




<昭和47年度・諫早市ほか1市1町競艇組合主催・連勝式勝舟投票券>



長崎県大村市玖島1-15-1